平成14年9月〜平成15年12月
平成16年1月〜平成16年12月
●平成17年12月 ■経もあり仏もあれば我もあり
(経もあり仏もあれば我もあり心の奥に亡き人もあり)
この世の中にあるものは、皆一緒に流れていくのだ。
一緒になって、時を味わいつくして流れていくのだ。
心に傷を負って流れていく人々が、一緒にいたわりあって生きていくのだ。
悲しみも苦しみも、黙って胸の中にしまいこんで、流れていくのである。
いまは亡き人の分まで、背負って生きていくのだ。
人生は深くて味のあるものだ。
すべてのものと一緒になって、百年を生きて消えていくのである。

【天田愚庵】
●平成17年11月 ■くらき道にもやみははるらん
(書きつくる跡に光のかがやけばくらき道にもやみははるらん)

無明の人々がのさばりかえている世の中だから、まっくら闇だ。
だからといって、まっくら闇の中でいつまでも、もがいていても、もぐらの人生になるだけだ。
これでは、いかにも暗すぎる。みじめすぎるではないか。
仏の心を一人一人がしっかりともっている。
その自覚があれば、一人一人から光が放たれる。
この光を放つ人間になるのが、人生の目標なのだ。
無明の闇を仏の心で明るくしていくことだ。
人生を明るくのびのびとしていく努力さえあれば、人生は必ず幸せになれるのである。

【明恵】
●平成17年10月 ■胸中に一物なきこそと貴し
(胸中に一物なきを貴く、無能、無智を至とす)

こだわりをもっていると、心が狭くなり、万物の光明がととかなくなってくる。
ありのままを、そのままとらえていく心こそ、尊いのだ。胸中にこだわりをもたないことだ。
一物もない心で世の中をみると、万物のささやきが聞こえてくる。
何一つ鈍感で感じられない人は、絶望だ。
しかし、あまり才能がありすぎて、
すべてを自分の才能で一刀両断にしてしまう人も、真実をみることはできない。
無能・無智は、こだわりのない人のことを言っているのだ。
自分の才能や知能におぼれていない人には、人生は真実の姿を示してくれるものだ。

【芭蕉】
●平成17年9月 ■慈悲第一にして生死万物をはなれよ
(今の世に仏法ありがたしと思い、慈悲第一にして、是非をはなれ、身のあくを去り、
自他の隔てなく、身念ずべきときえてなき人、生死万物をはなれ、解脱をうるなり)

今の世で仏法にあえたことを心から嬉しく思われて、
慈悲の心を燃やして、多くの人々の幸せのために骨を折ることだ。
自分と他人のへだてなど、とりはらって、自分も他人も一つになる。そこに仏の光明があらわれる。
自分は自分だ。他人のことなど考える余裕はない。誰もがそう思って、がつがつと生きている。
傷ついているのは、結局、自分なのだ。
生きている限り、まわりと争って、傷だらけになって、のたうちまわっている。これでは苦しむばかりだ。
自己中心を捨てて、他人の幸せをはかる慈悲の心を持って生きていきたいものだ。

【至道無難】
●平成17年8月 ■いづれの時か夢のうちにあらざる
(そもそもいづれの時か夢のうちにあらざる、いづれの人か骸骨にあらざるべし)

この人生は、百年間だけ、夢をみているのかも知れない。
いろいろなことに出会って、不思議な縁をあちこちで結びながら、夢の中を生きているように感ずる。
夢の中の人生なのかも知れない。
この人生が夢であるならば、夢の中で、地位にしがみつき、財産をにぎりしめ、
誰彼となく軽蔑していきていても、そんなことに、何の価値もないことぐらい、すぐわかる。
あっという間に骸骨となる身ならば、できるだけ善をすすめ、まわりの人々と一緒になって、
悲しみも苦しみも共に味わいながら、それを少しでも明るい方へ転換していくことができれば、
うれしいと思う。

【一休】
●平成17年7月 ■亡き人を探すよりもその人の願いを知れ
(亡き人を探すよりも、亡き人の願いが何であるかとわが胸に問え。
それがわかったならば、本当の両親や妹に会える)

戦争で肉親を亡くしたり、行方不明となって、生涯さがし求める人は少なくない。
人間としてそれは大事なことだ。戦争は絶対にやってはならない。
人々を傷つけ悲しませるだけだ。
いつの戦争でも肉親の行方不明をさがす人たちが出てくる。
悲しいことだが、心に、亡き人の面影を抱いて、
もしもいまその人が生きていたら、
どんな気持ちで家族のことを思いうかべているだろうかと、考えてみることだ。
つらい運命を生きて亡くなってしまった人の分まで、生きてあげなくてはならない。
自分の心に、亡き人の思いを重ねあわせて生きていくことだ。それが肉親というものだ。

【山岡鉄舟】
●平成17年6月 ■飯は何の為に食うものか
(飯は何の為に食うものか。ひだるさを止めん為に食うものか。
しかるに、添え物なくて、飯は食われぬというは、
皆な人の癖なり、ひだるさやめんための計略なり。
徒に食うにあらず、添え物なくて飯の食われぬというは、未だ飢えの来たらざるなり)

最高のご馳走は空腹なのだ。
空腹でぐうぐう鳴っていれば、どんなものでも、最高のご馳走となる。
おかずなんか何もいらない。
おかずがなくては、飯が食えないという人がいるならば、
その人は、まだ、空腹ではないのだ。
贅沢に生活している人は、簡素な生活のすがすがしさを知らない。

【一休】
●平成17年5月 ■身に八万四千の悪あり
(身に八万四千の悪あり。身なければ大安楽なり。
じきに神なり、じきに天なり、わが家に仏というなり)

人は自分がかわいくて仕方がない。
我執にこだわり、貪欲にふりまわされ、他人を踏みつけ、足でけっとばし、策をもうけておとし入れる。
そして、自分だけ生きのころうとする。業は確かに深い。
我執を捨てることだ。 貪欲の心をおさえることだ。
そうすれば、八万四千の悪もおさまって、仏に近づくことができる。
人は本来仏なのだが、浮世の垢にまみれて、
仏の光明が自分の身心から光ってあらわれなくなているのだ。

【至道無難】
●平成17年4月 ■一度のたしなみが一期のたしなみなり
(一度のちがいが一期のちがいなり。一度のたしなみが一期のたしなみなり)
初めて接した仏法に心を打たれて、縁ができ、そのまま一生、仏法にふれていく人がいる。
何事もいいかげんに接していては、好機をのがしてしまう。
人生でふと出会うことが、とても大切なことなのだ。
人はみな一日一日の出来事を、うすぼんやりと見すごしている。
どれくらいの好機がすぎていってしまったか、数えきれない。
一度の縁が人生を左右する。
この好機をつかむには、絶えず、人生に求めるものがなくてはならない。
そのつもりになって一瞬一瞬をすごしていると、実におおくのことを学ぶことができる。
一日の好機に鋭い感受性で対処していけば、ゆたかな毎日が送れる。

【蓮如】
●平成17年3月 ■仏法遥かにあらず心中にして即ち近し
(夫れ仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し。
真如外にあらず、身を棄てて何にか求めん)

仏法を経典に求めて、万巻の書を読破するのも、大事なことだ。
しかし、日々のくらしに忙しい凡夫の私たちは、万巻の書を読むことはむずかしい。
では、どうすれば、仏法に近づくことができるのであろうか。
仏法は、万巻の経典の中にあるのではない。
自分自身の心の中に、実は、万巻の経典の真髄があるのだ。
この大切な宝物をしっかりと見つめて、自分の心を磨いていくことが、
人生のよろこびなのだ。
何ものにもかえがたい人生の宝を生涯を通して磨いていくことができれば幸せになれる。

【空海】
●平成17年2月 ■まだ立ぬ波の音を心にてきけ
(まだ立ぬ波の音をばたたえる水にあるおと心にてきけ)

心の働きのにぶい人は、生命の尊さに気がつかない。
雪が降りはじめる。氷がはりはじめる。万物が縁によって動いていく。
その鼓動を鋭くとらえていけば、人生は光り輝く。
心の感性をゆたかにすることだ。
物にとらわれ、金にとらわれ、我にとらわれると、心の感性が偏って、鈍感になる。
鈍感になったら、万物から放つすばらしいサインがとらえられなくなる。
一切にとらわれず、心眼を磨くのだ。
心眼が鋭くなれば、人生は幸せにみちてくる。
まだ立たない波の音を、水の静かな流れの中にとらえる感性はすばらしい。

【沢庵】
●平成17年1月 ■初心の人は念起坐禅を心得べし
(初心の人は、念起坐禅と言うことを心得べし。
其の初めをよくよく見るに、晴れたる天に始めて雲の起るが如し。総て其の由来なし。
只晴れたる虚空の如し。譬えば、真心は虚空の清浄なるが如し。)

初心の人は、何事でも先の見通しが立たないから、あれこれと気をもみ、心が雑念で曇ってしまう。
修行を重ねていくと、だんだんと雑念が払われて晴天の輝きをつかむことができる。
本来、人の心は清浄なものだ。曇るのは、つまらぬ雑念がわいてくるからだ。
この雑念は、欲をおさえられない人ほど多くて大きい。
修行を重ねていくと雑念が払われて、清浄は自己があらわれてくるのだ。

【無本覚心】
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参考書籍 出版社 著者
名僧の言葉 中経出版 赤根祥道